こんなものいらない

あって当然だと思っているが、よく考えるといらないもの、ない方が生活の質が向上するものを挙げていきます。

趣味のサークル

昔はアニメを山ほど見ていた。だから、大学では、当然、アニメサークルに入った。

失敗だった。

僕は、アニメ好きな人が集まれば、共通の話題があって、楽しく話ができて、さらにアニメを見るのがおもしろくなるもんだと考えていた。

ところがそうではなかったのだ。

入ったサークルは、いわゆる商業アニメ同好会ではなかった。過去の経緯があり、同人誌を作ったり、自主アニメを作ったり、アート系アニメーションを見に行ったりすることもあった。

木尾士目「げんしけん」というマンガがある。アニメ化もされた。大学のアニメ研の話なのだが、サークルの正式名称は「現代視覚文化研究会」略して「げんしけん」である。最初からアニメサークルだったのではないのだ。僕が入った大学のサークルはまさにこのパターンだった。

げんしけん」は名前でひねくれているにように、内情もひねくれている。過去の経緯やOBとのつながりが、現在の部員たちの行動に影響を与えていて、新入部員たちは頭を抱える。

ゆうきまさみ「究極超人あ~る」における「光画部」とも似ていた。実質的には写真部なのに、写真以外のことをやっていたOBたちが、年中、干渉してきて、現役部員たちとの間で葛藤が生じる。

過去の経緯と現状との「ねじれ」を楽しいと思えればいい。「げんしけん」も「光画部」も、その「ねじれ」が話に幅を作り、楽しい作品となっていた。

僕は楽しくなかった。

楽しくない原因は、自分がやりたくないことをサークルの事情で行ったり、趣味の合わない人たちを相手にしなければいけないことだったが、完全に趣味の合う人なんているわけがない。他人なんだから。

誰かとつきあう限り、自分の時間や手間やカネがいくらか犠牲になる。これが我慢できなかった。

当時、僕には哀しいほど時間も労力もカネもなかった。

客観的には恵まれていた。仕送りが毎月20万円あり、全くバイトをしなかったが、主観的にはいつも追い詰められていた。進級も院進学も就職も(しなかったけど)、どれもひどく困難なことのように感じられ、いつも暗い気分だった。何をしても、浪費した時間を数えて、損した気分になった。他人のために時間を使うのが我慢ならなかった。

僕の入学した大学は、12年次と34年次と大学院とではキャンパスが異なり、遠く離れているので、3年以降はサークルに出ることはなくなった。

僕は自由の身となり、その頃全盛だったレンタルビデオショップを利用したり、テレビアニメのエアチェックをするようになった。一人でアニメを見ていた中高生の頃に逆戻りしただけだ。

本当に好きなことは、他人と共有できない。違う解釈、違う感想があるというだけで動揺したり、気分を悪くしたりする。

武田康廣「のーてんき通信」にも、SFサークルに出入りしたら、古参マニアに知識の狭さや読みの浅さを小バカにされるくだりがある。
趣味に深いも浅いもない。だって趣味なんだから。まったく大きなお世話だ。

人とつきあうことを目的にしたサークル活動ならともかく、趣味を深めたいだけなら、サークル活動は無駄だと思う。